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大阪地方裁判所 昭和59年(ワ)4303号 判決

原告

甲川太郎

甲川ハナ

右両名訴訟代理人弁護士

小山田貫爾

北野幸一

被告

クスベ病院こと

楠部治

右訴訟代理人弁護士

米田泰邦

主文

一  原告両名の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告両名の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告両名の請求の趣旨

(一)  被告は、原告両名に対し、各二五九三万三七二七円及び内二三五八万三七二七円に対する昭和五七年九月一三日から支払済みまで年五分の割合による金負を支払え。

(二)  訴訟費用は被告の負担とする。

(三)  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する被告の答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  原告両名の請求原因

(一)  当事者

原告甲川太郎(以下「原告太郎」という。)は、亡甲川万男(以下「万男」という。)の父、原告甲川ハナ(以下「原告ハナ」という。)は万男の母であり、被告は肩書住居地においてクスベ病院を開業する精神科の医師である。〈以下、省略〉

理由

一当事者

原告太郎が万男の父、原告ハナが万男の母であり、被告が肩書住居地において、クスベ病院を開業する精神科の医師であることは、当事者間に争いがない。

そして、〈証拠〉によれば、被告は、昭和三〇年に医師免許を取得し、しばらく病院勤務を続けた後、昭和三九年一二月ころから現在の肩書住居地で、精神科、神経科、内科を診療科目として入院設備のない看護婦助手三名程度の診療所を開設しており、一階では、被告の兄が眼科を開業していることを認めることができ〈る〉。

二万男の症状と被告の診察の経過

前記認定事実並びに〈証拠〉を総合すれば、以下の事実を認めることができる。

(一)  万男は、○○○大学法学部法律学科三年生に在籍する学生であつたが、昭和五七年七月二〇日ころ、夏期休暇のため京都市左○区の下宿先から自宅へ帰宅し、同年八月一六日ころに京都へ大文字の送り火を見に出かけたほかは、毎朝五時ころ起きて家業の魚粕肥料などの製造を手伝つたりして過ごしていた。

万男は、右休暇期間中、同年九月一〇日ころから不眠状態に陥つた様子を見せたほかは、特段変わつた様子もなく、同月一〇日には自宅で原告太郎とカラオケを歌つたり、翌一一日には原告太郎と大阪市内へ飲食に出かけたりした。(但し、万男が京都の大学に在学していたこと、同人が京都に下宿していて夏休みに帰省中で、九月一〇日ころからふさぎこんでいたことは、当事者間に争いがない。)

(二)  ところが、万男は、京都の下宿先に戻る予定になつていた同年九月一三日朝、原告ハナが朝食の用意をしていると、二階から降りてきて、原告太郎からどこか身体の悪いところはないかと聞かれるや否や、一階炊事場の土間に素足で降り、地面に平伏して原告両名に「お母さんやお父さんを裏切つた。友達やすべての者を裏切つてしもうた。」などと口走つた。万男は、原告太郎から「何言うてんのや。万男どつか悪いんか。」と声をかけられると、そのまま二階へ上がつて行き、二階では、万男について上がつた原告太郎に向かつて「僕は死にたいんや。」とも言つた。

原告太郎は、万男の言動がおかしいので精神科の医者に診てもらうことにし、原告ハナも万男のコンタクトレンズの購入等のため同伴することを口実に、万男に朝食をとらせた上、原告太郎が運転する自家用車の助手席に万男を同乗させ、原告ハナが後部座席に乗つて、原告両名宅から車で約一四、五分の距離のクスベ病院へ赴いた。万男は、朝食を食べる際には、普通に応答して朝食をすましており、クスベ病院への車中、踏切りで列車の通過待ちをしている間に助手席から外へ出ようとしたが、原告太郎から「何をするんだ。」と言われるとじつとしていた。

(三)  原告両名及び万男は、九月一三日午前九時三〇分ころ、自家用車でクスベ病院に到着した。万男は、車から降りると「僕もう治つたんだ。」と言つたが、原告両名から受診するようにとの説得に応じて二階待合用の長椅子のところまで抵抗することなく入つて座つた。長椅子には診察待ちの女性患者が二、三名いた。原告ハナが二階受付で万男の受診手続をしていると、万男は長椅子から急に立ち上がり、二階階段上から約一メートル四〇センチメートル下の踊り場に向かつて階段を頭から飛び込むような形で飛び降り、さらに踊り場から一階まで階段を飛び降りようとして原告太郎から制止されたが、クスベ病院が昭和二、三年ころ建てられた古い木造の建物で、階段も木造であつたためか何ら受傷しなかつた。

(四)  万男は、原告両名に伴われて診察室に入り、被告と向かいあつて座り、原告両名はその後ろに立つたままで診察がはじまつた。

被告は、まず万男に対し、「どうしたんですか。」とか「気分はどうですか。」と言つて問診をはじめたが、同人からは「自分は病気ではない。」とか「診察を受けるいわれはない。」と答えが返つてくるだけであつたので、原告両名から、万男が現在、大学三年生で京都で下宿しているが、夏休みで家に帰つてきていること、二、三日前からふさぎこんでいたが、今日はそわそわして落ち着かず、「皆うそつきだ。」とか「すまん」とか変なことを言つたこと、大学受験のころにもそわそわして落ち着きのないことがあつたこと等の報告を受けたが、クスベ病院の二階階段から飛び降りたことの報告は受けなかつた。

被告は、万男の表情が乏しく、外貌が硬くて落ち着きがないことから、万男が精神分裂病ではないかとの疑いをもつた。そして、被告は、万男が診察中、質問には応答するものの言葉が少なく、急に興奮して席を立ち診察室の中を歩き回つて外を見たり、聴診器やハンマーを手にとつたりして診察に拒絶的な態度を示すのを見、「目先の欲だけで生きてきてすべての人を裏切つた。」とか「死にたい。」等ひとり言を言うのを聞いて、万男が急性の精神分裂病であるとの確信を抱いたが、右行動を自殺企図とは判断しなかつた。

なお、万男は、診察室の中をうろうろ歩き回つている時に、診察室内の流し台付近でそこに置いてあつた鉗子(注射器などをつかむ器具で先が丸くなつている。)を手にとって、自分の喉にあてるような格好をして、原告太郎から鉗子をとりあげられたが、被告は診察中右行為には気づかなかつた。

(五)  被告は、万男には全く病識がなく、精神病院へ連れてこられたこと自体非常に心外に思つて興奮していると判断し、万男に対する内科的な診断も断念して、原告太郎と一緒に万男を診察室の外で待たせることとした。万男は、その後、クスベ病院を出るまで特に暴れることもなく、原告太郎と共におとなしくしていた。

被告は、診察室に残つた原告ハナに対し、「かなりたちが悪い病気やから通院で治療するのは難しい。本人に病識ないから薬も飲まんやろし、治療受ける気ないから入院して治療せないかん。」と説明したが、精神分裂病という病名や急性の精神分裂病では自殺の危険性が高いことまでは説明しなかつた。そこで、被告は、診察室横の薬局の電話で和泉中央病院へ架電し、万男の年齢、状態を伝え、受け入れ体制の有無を確認したところ、同病院は受け入れを承諾した。その際、被告は、和泉中央病院から、患者を迎えに行こうかとの申し入れを受けたが、病院から来てもらうと一〇分ないし二〇分の時間がかかるし、白衣を着た看護人により救急車に乗せることは万男を余計興奮させるため、両親が車で一緒に来ており連れて行けると考え、右申し入れを断わつた。

それから、被告は原告ハナに対し、和泉中央病院に電話で連絡をとつているし、家に帰つて連れて行くとなるとなかなか難しいので、今すぐ連れて行くように指示し、同病院までの案内図も記載されている同病院のパンフレット等を渡した。原告ハナは、万男の興奮を静めるために被告に対し、投薬を要請したが、被告は、万男が受診に対し、拒絶的な態度を示しており、投薬のできる状態ではないと説明してこれを拒絶した。

原告ハナは、どういう方法で万男を和泉中央病院へ連れて行くかについてしばらく考えたものの、被告から、病院から救急車に迎えに来てもらうためにはかなり時間がかかると聞いて、原告太郎と共にクスベ病院へ乗つてきていた自家用車で病院へ行くことに決めた。

(六)  原告ハナは、診察室を出て、外で万男と待つていた原告太郎に対し、万男が入院する必要のあること、入院先として和泉中央病院の紹介を受け、そこへすぐに向かうよう指示されたことを報告したが、原告太郎はとりあえず自宅に帰ることと決め、自家用車後部座席に原告ハナと万男を乗せ、自ら運転して自宅へ向かつたが、万男はクスベ病院を出て車に乗るまで、あるいは車中でも特に変わつた様子を示さなかつた。

原告両名及び万男が自宅に帰り着き、車が車庫に入いるや否や、万男は原告ハナの手を振り切つて車外に飛び出し、自宅付近の団地の四階から飛び降りて負傷し、同日午後六時三五分ころ死亡した。

三被告の責任

(一)  債務不履行責任

(1)  原告両名が、昭和五七年九月一三日、被告との間に本件診療契約を締結した事実は当事者間に争いがなく、万男が被告の診察を受けたことは前記のとおりであるから、万男は受診により本件診療契約につき黙示的に受益の意思表示をしたと認めるのが相当である。万男が、前記認定のように被告の診察に対し、拒絶的な態度を示していたとしても右判断を左右するものではない。

そうすると、被告は本件診療契約により万男に対し、その病名を診断した上で同人に対し、適切な治療を行なうことを内容とする債務を負担したというべきである。

(2)  そこで、被告の過失の有無について検討する。

(イ) 〈証拠〉によれば、以下の事実を認めることができ〈る〉。

(a) 精神分裂病では、通常人に比して自殺者の割合が極めて多く、その発病初期には慢性期に比べて病的体験に促された唐突で了解の困難な自殺がかなり多くみられるが、実際に自殺する患者の数はそれほど多くはなく、自殺念慮がありながら自殺せず通院治療で治癒することもあり、自殺の可能性を察知することは極めて困難である。

精神分裂病の中にも自分が死んだ方が周囲の者が助かる、あるいは世の中がよくなると思うような罪業妄想を抱く妄想型、妄想のはつきりしない破瓜型及び非常に興奮の激しい緊張型の三つのタイプがあるが、そのいずれのタイプにも重篤の程度に応じて自殺の危険性はあり、特に妄想型に自殺の危険が強いとまでは断定できない。

自殺の危険性は、単に自殺念慮を抱いているにすぎない場合に比して自殺企図をした場合の方がはるかに高い。

(b) 精神病患者が激しい興奮を示し、自殺のさし迫つた危険がある時には、ヒルナミン等の向精神薬やイソミタールのような麻酔薬を投与したりして興奮を鎮静する必要があるが、これらの薬剤は、経口や筋肉注射では効果があらわれるまでにかなり時間がかかるし、静脈注射によると心臓に負担がかかり、血圧が急に低下したり、心臓麻痺を起こす危険性などの副作用もあつて、その処方にあたつては、充分な人的、物的設備のもとで常に患者の全身状態のチェックを行なつて慎重に行なう必要がある。

精神医学界においては、精神障害者の治療は患者を社会に適応しうる状態にすることを目的とするから、特に自身を傷つけたり、他人に害を及ぼすおそれのある精神障害者以外の患者に対しては、精神病院での生活環境も一般社会からかけ離れた特殊な状態にすることをできるだけ避け、実社会の雰囲気に近い状況において行なうのが適当であるとする開放療法の考え方が支配的であり、クスベ病院のような入院設備のない診療所も右の考え方に従つて、昭和三九年ころから開設されるようになつた。したがつて、現在、クスベ病院で通院治療を行つているのは、神経症のような患者に対してが多く、病状の軽快した精神病患者を除けば、精神病患者の場合には、クスベ病院が入院設備を備えた精神病院を紹介し、そこで入院治療がなされることが多い。入院方法についても、患者を保護者自ら病院へ連れて行くように指示する場合がほとんどで、病院から迎えに来てもらつたり、鎮静剤を投与したりすることは極めて少ない。

(ロ)  以上認定した事実及び前記認定にかかる万男の症状と被告の診察の経過によれば、万男は、確かに被告の診察に対し、拒絶的な態度を示していたが、原告太郎と共に診察室の外で待つている間には、興奮も静まつていたこと、原告両名が自殺企図であると主張する階段からの飛び降りや鉗子を自分の喉元に近づけた万男の行動は、階段が古い木造のさほど高くないものであり、鉗子も先が丸く危険な器具ではないことに照らせば、自殺企図とまで断定することは困難であること、被告は、診察の際、階段からの飛び降りの事実を知らされず、鉗子の件についても目撃していなかつたこと、自殺企図の認められない精神分裂病患者の自殺を予測することは極めて困難であることが認められ、これらによれば、被告が万男のさし迫つた自殺の危険を事前に予測することは困難であつたというべきである。

(ハ)  さらに、被告の診察の際の具体的処置についてみると、被告は診察の結果、万男を急性の精神分裂病と診断したが、本人に病識が全くないので通院治療は不可能であると考え、入院設備のある和泉中央病院を原告ハナに紹介して入院を強くすすめ、同人の承諾を得た上、同病院に電話連絡して患者の受入れの承諾を得て、原告両名が車で来院していたことから、原告ハナに対し、原告太郎と共に右車で直ちに同病院に万男を連れて行くよう指示したというのであるから、前記のとおり、被告が万男のさし迫つた自殺の危険を予測することが困難であつたことと考えあわせれば、被告の措置はいずれも各時点において適切であつたというべきである。

この点について、原告両名は、被告は、万男の自殺を防止するために万男に鎮静剤等を投与すべきであつたと主張するが、自殺のさし迫つた危険が予測できない場合に、入院設備もなく、看護婦助手も三名しかいない被告が、診察に対し、拒絶的な態度を示す患者に対し、強制的に鎮静剤等を投与しなかつたとしても、これをもつて過失ということはできない。

又、原告両名は、被告の和泉中央病院への転送方法に過失があつたと主張する。一般に、医療契約には患者の治療にあたつた医師が自己の専門外の医療分野における治療を要すると判断したとき、又は、同一医療分野内であつても、より高度の医療水準を要する医師又は医療施設に患者の治療等を求めるべきものと判断したときに、転送先に対し、患者の状態等を説明して受入先の承諾を得た上で、適切な治療を受ける時機を失しないよう適宜の時機、方法により右転送先まで患者を送り届ける義務、即ち転送義務が内在するものというべきであるが、本件においては、前記認定のとおり、被告としては、救急車を呼んだり、和泉中央病院から迎えに来てもらうと時間がかかり、しかも患者を興奮させるだけであると判断し、両親の同乗する自家用車で直ちに、同病院に行くのが最もよい転送方法であると考え、原告ハナにその旨指示したというのであるから、自殺のさし迫つた危険を予測することが困難であつたことからすれば、被告の転送方法に過失があつたということもできない。

さらに、原告両名は、被告は原告ハナに対し、万男が急性の精神分裂病であり、自殺の危険性が高いことを説明すべきであるのにこれを怠つた過失があると主張する。被告が原告ハナに対し、万男の病名が急性の精神分裂病であると告知し、分裂病患者の抱く自殺念慮とその自殺の危険性についてまで説明、指導しなかつたのは前記認定のとおりである。一般的には医師が診断(所見)について患者に対し、説明する義務も医療契約に内在するものというべきであるが、病名をそのまま、あるいは学術用語でいわなければならないのではないというべきであるし、又、医師は患者に対し、当面診断した症状に対し、適切な治療、指導をすべきであり、病状の推移に従つてその時点で適切な治療を施すのであり、前記認定のとおり、被告は原告ハナに対し、万男が入院しなければ治療不可能な病気であり、直ちに入院するよう説明、指示しており、原告ハナも万男が入院しなければ治療できない精神病であることを了解したというのであるから、被告が精神病の知識に乏しいと思われる原告ハナに対し、精神分裂病が通常人に比べれば、自殺のおそれの強い病気であること等を説明しなかつたことが、不親切のそしりを免れないとしても、自殺のさし迫つた危険を予測できなかつた本件において、これをもつて被告に説明義務違反の過失があつたということはできない。

他に、被告が診療契約上の過失があつたと認めるに足りる証拠はない。

(二)  不法行為責任

以上のとおり、被告にはその診療上の過失が認められないから、被告は不法行為上の責任も負わないものというべきである。

四結論

以上のとおり、原告両名の請求はその余の点について判断するまでもなくいずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官福永政彦 裁判官森 宏司 裁判官神山隆一)

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